宿物語|里と海の「あわい」の土地で(文・聞き手|簑田理香)

第2章 波と生きる|海の暮らしを歌う土地で。(その3)歌は世につれ、世は歌につれ

震災の日の記憶

今回の取材の最後に、「大洗の磯で波がどーんと来て、すーっとかえって行くような、そんな磯節」と宮内さんが評した、磯節、本流の後継者とされる浜久美子さんを訪ねます。

「生まれ育った家は、もっと海の近く。海が目の前だったの。嵐の前には、家の前で、舟主が舟を並べて縛っていて、それが当たり前の風景だった。家の中にいても海を感じる家。もちろん、波の音もずっと聞こえてるわよ。そこで歌って練習してた。今は、更地になってしまったから、本当はね、お金があったら、あの土地を買い戻して、また住みたいの」

浜さんは、震災後、3回目の引越しの前の仮住まいで、息子の進一郎さんと一緒にお話を聞かせてくれました。 2011年の東日本大震災では、大洗も揺れや津波の被害を受けました。浜さんが住んでいた生家は、舟も陸に乗り上げ、役所的な分類で言うと大規模半壊の被害があり、当時のことはあまり思い出したくない、記憶も飛んでしまっているという浜さんに代わって、進一郎さんが、当時のことを話してくれました。

「大きな揺れの後、水が来るっていうから、車で逃げようとしていたら、側溝から水が噴き出し始めたんです。これは来るなって、おふくろを急いで車に乗せてドアを閉めたら、バックミラーにキラキラ光るものが見えて、もうあっという間に波に押されて車ごと浮いてしまいました。そして流されていって、目の前の家にぶつかると思ってハンドル切ろうとしても、流されているからハンドル効かないんですよね。そのうち物置にぶつかって車が止まって安心したのも束の間、もう水位が上がっているからドアも窓も開かない。隙間から水がどんどん入ってきて…、首まで水に浸かって、かろうじて息をしている状態でしたから、おふくろと、もう終わりだなって、あきらめかけたんですけど、目の前から水がすーっとひいていくんです。第二波の前でした。ようやく水が抜けてから、そのすきにドアを開けて、それからはもう、がれきの中を苦労しながら夢中で大洗磯前神社の上へ走って、助かったわけです」
浜さんもつぶやきます。
「だからね、その後、記憶が飛んでしまって、いろんなことを思い出せなくなってしまったの」

自宅の1階にあった浜さんの着物は全部、重油とヘドロでダメになってしまい、水をかぶった三味線は張り直しに出したそう。2階にあった、進一郎さんが叩く太鼓は無事だったと言います。震災後、浜さんは海が見えると恐怖を感じ体調を崩したこともあったそうです。
「自宅に住めなくなって、お弟子さんが持っているアパートの3階を借りたんだけど、そこから見える水平線が怖いって、夢の中でも水が来るって言って、おふくろも眠れなくなってきたから、また引越して…」と、進一郎さん。それを受けて、浜さんはこう続けます。
「記憶はなくなってしまったけど、声はなくしちゃいけないでしょ。声は歌っていないと出なくなるから、毎日、声は出していたの。海もね、大好きだったんだけど…。でも最近になってね、やっぱり、海のすぐそばでくらしたいと思えるようになってきたね」

本場磯節を歌い継ぐ

浜久美子さんは、昭和20年に大洗の磯浜町で生まれ、ものごころついた頃から、母や叔母であった関根ヨシさんの影響で長唄や日本舞踊、民謡が常に聞こえる環境で育ちました。父親が病気で早逝し、母が女手ひとつで、保育所の給食士をしながら子どもたちを育てていたという事情もあり、浜さんは、5歳の頃から母の姉、つまり叔母である関根ヨシさんのもとで暮らし始めたそうです。ヨシさんは芸者として芸事で身を立てていたそうですが、小学校にあがった浜さんが「芸者の子」といじめられたのを聞き、「久美子がかわいそう」と、芸者はやめて芸妓衆に芸事を教えることで生計を立てるようになったそうです。夜間の高校生だった宮内さんのように、多くの人がヨシさんに教わりにくる環境でした。浜さんが生まれる以前、若かりし頃のヨシさんは、関根安中の指導も行っていました。安中の磯節が広く知れるようになった背景には、常陸山の存在だけではなく、安中の磯節の稽古をつけていたヨシさんの存在もありました。そのような環境のもとで、本場磯節を継いだのが浜さんです。

「小学校3年生になった頃かな、少し歌えるようになってから仕込まれて、おばさんと町長も一緒に本場磯節保存会をつくったの。それで、磯節を広めるために、毎年鬼怒川の先まで学校休んで宣伝に行ってたのよ」

磯節を中心にした大洗町の観光PRで活躍を続け、中学を卒業してすぐに、15歳の浜さんは大洗から単身上京します。田端義男の『大利根月夜』、三波春夫の『チャンチキおけさ』などで知られる作曲家の長津義司さんに師事。昭和39(1964)年、18歳の時に、歌謡曲歌手として『磯で暮らせば』でレコードデビューを果たします。その後、NHKの歌番組にも出演を果たすようになります。
「記憶が曖昧になってしまったからね、よう思い出せないところもあるんだけど、長津先生が、どこかで歌っている私を見かけて声をかけてくれて、それで東京行ったのよ。叔母も喜んでくれたの。こんな偉い先生に見込まれたって。一人で上京したって言っても、最初は足立区の親戚の家に居候したり、そのあと、池袋や原宿に住んだり、まあとにかく忙しかったけど、けっこう楽しかったわね」

民謡歌手から歌謡曲へ、そして、大洗の磯節を歌い込んできた浜さんには、磯節を挿入した歌謡曲という企画も持ち込まれます。昭和57(1982)年に発売された『磯節情話』で、石原裕次郎のバンドが演奏を担当していると言います。浜さんの素質は、叔母の関根ヨシさんから、口伝で受け継いだ長唄や磯節に基礎がありました。あまり厳しく指導された記憶はないとのことですが、ヨシさんが長唄や民謡や磯節を歌う、それを聞いて、その通りに歌う。その繰り返しの日々だったそうです。
「叔母は、とにかく芸事全般、素晴らしかった。100歳まで生きたの。昔からそうだけど、この歳になっても、舞台に上がる前は必ず、叔母に祈るのよ。今日も、見守ってくださいって」

やがて、東京で生まれた息子の進一郎さんも、磯節のレコーディングには太鼓で参加するようになります。1981年収録のレコードには「太鼓 大澤進一郎 1970年生まれ 11歳」とクレジットされています。そのいきさつを進一郎さんに伺ってみました。
「レコーディングの時は、大変でしたね。ひとりずつブースに入って、ブブーとブザーが鳴ると静かにしないといけない。しゃべっちゃだめ!と注意される。もう二度といやだ!って叫んだらしいです。太鼓を始めたのは、今思えば、できるだけ、母親のそばにいたかったからという気持ちからでしたね。生まれたのは東京なんですけど、母は歌で全国を飛びまわっていましたから、幼稚園に入る時に大洗に戻って、祖母と住むようになったんです。日舞とか太鼓を始めたのは、母と接点をもっていたかったという理由でした」

昭和35(1960)年、浜さんはが15歳で上京して、10年後に生まれた進一郎さんが物心つくまでは、まさに日本の高度経済成長期まっただなか。三種の神器と呼ばれた家電製品も普及し、女性の社会進出も進み、余暇と呼ばれる時間も増えて行く時代です。宮内さんのお話などからも察すると、民謡が労働歌や生活の中の歌として地域や家庭の中で伝承されてきた時代から、「民謡教室で教わる」時代への変容も、この時期に重なっていると推察されます。そういう時代背景に思いを巡らせながら、進一郎さんのお話を伺っていました。

磯節、歌詞の情景

最後に、宮内さんと同じ質問を浜さんにも問いかけてみます。長唄、民謡、歌謡曲、日本舞踊もこなしてきた浜さんにとって、磯節はやっぱり特別なものですか?
「特別よ。私にとっては、磯節だけね。きちんとしなきゃ、きちんと歌わなきゃって、特別に思うものは。なんとも調子悪い時は、全然きちんと歌えない。ただ歌うだけなら簡単よ。でも独特の調子があるし、磯で〜とうたうだけでも大変ですよ。私は三味線の調子を高くして、出だしから高く二上りで歌う。はやし言葉にも、踊りにも、ちゃんと意味があるの。わかる?」

大洗町磯浜地区で伝承されている磯節では、こんなはやし言葉と歌詞で始まっています。

(ハァーテヤテヤテヤ イササカリンリン スカレチャドンドン ハァサイショネ)
磯で名所は大洗さまよ(ハーサイショネ)
松が見ますほのぼのと(マツガネ)
見えますほのぼのと(ハーサイショネ)

進一郎さんが、はやし言葉を解説してくれました。
「これは、漁師さんが、カツオ漁を頑張って、そして、隣街の遊郭の好きな女性のところに行く、その情景なんです。ハァーテェヤテヤテヤというのは、本当は、漁師の人たちが、と−いやとーいやって、カツオを呼ぶ声で歌っていた、それがいつのまにか、民謡で歌われるうちに、テェヤになったと聞いてます。イササカリンリンという、イササカは、大洗小学校の脇の坂、磯坂ですね。リンリンは、そこを通って馬で隣街の遊郭に行く、と。こスカレチャドンドンは、この隣街の人たちに好かれるように、好かれなかったら大変だ、という意味なんでしょうか。カツオが獲れたら急いで通ったんですかね。ハァサイショネは、迎える側の気持ちで、自分のところに一番最初に来てねってことなんですね」

磯節は、お座敷で歌われるようになって、踊りも付けられていますが、その振りにも意味があると浜さんは教えてくれました。
「私が小学校3年の時に、本場磯節保存会を作った話、したでしょ。大洗町も、磯節を観光PRに積極的に使うようになって、それで、祭りで踊りも披露できるように、関根ヨシや私たちで、一生懸命、歩きながら踊れるように振りつけを考えたの。網をひく、ふねをこぐ、千鳥の型、網投げの型、それから網を引く。それを歩きながらやりやすいように振付を変えてね。波のところに千鳥がいるよ、ああ、漁師が網をなげたよ。あ、網を引いてるよ。引きながら舟を漕ぐよ。漕ぎながら網を引っ張る。その合間にも、ああ千鳥が飛んでるよって、全部踊りで伝えているわけ」

そう話しながら、手と首の動きや視線の持ち方で、表現していく浜さんの向こうには、櫓を漕ぎ、舟を出す漁師の姿が見えるようです。前にかざす手の動きからは、磯の風が吹いてくるようです。民謡が生まれた当時は、歌い手も聞く人も、どちらの暮らしも、その歌詞の情景とともにありました。

世の中が移り変わっても、その当時の風景に現れる風土と人の暮らしとの関係、そこで暮らす人々の暮らし、暮らしの中の心や気持ちの機微…そういったものを、しっかりと歌詞とともに受け取りながら丁寧に伝えていく。それが、土地の文化の継承ということなのでしょう。今回の取材で強く感じたのは、そこには、いつも、祖父母と孫、親と子、叔母と姪など、家族の絆が色濃く見え隠れするということです。漁師の息子だった関根安中、職人の父と宮内さん、祖母と父母と女将さん、浜さんと叔母である関根ヨシさん、母親と一緒にいる時間を作りたくて民謡の世界に入ったという進一郎さん…。だからこそ、大洗の文化継承としての磯節の、奥行きの深い魅力になっていると感じます。

取材の最後に、浜さんが、とても大切なことを特別に教えてあげるわよ、という表情で、小声で話してくれました。
「あのね、誰が一番うまいって、もちろん舟方衆よ。うまいんだけど、恥ずかしがって、人前とか大会とかでは歌わない。声がかすれてて、いい声なんだけどね」

簑田理香

栃木県益子町在住。企画者。編集者。執筆者。地域編集室 簑田理香事務所主宰。宇都宮大学地域連携創生機構 特任准教授。教育、研究という仕事の領域と、ボランティアの地域活動も地続きで、その土地の風土に根ざした健やかな地域づくりの事例研究や学びの活動、メディア制作などを行っている。益子の人と暮らしを伝える『ミチカケ』(2013-2018)編集人。益子町「土祭」2012/2015プロジェクトマネージャー。

里海邸の本棚から

『すばらしいとき』ロバート・マックロスキー

渡辺茂男 訳(福音館書店)

アメリカの絵本作家ロバート・マックロスキーは第二次世界大戦後、娘が誕生したばかりの家族でメイン州のペノブスコット湾に移住しました。メイン州はニューヨークのはるか北、海岸避暑地として知られ、入り組んだ海岸線と多くの島が点在する海自然の豊かな場所。著者はここで家族との海辺暮らしを描いた3作品を製作しました。本作はその最後の作品で、著者の二人の娘と思われる主人公達が海辺の自然に触れて過ごした夏の思い出を、父の声で詩情豊かに語ります。ペノブスコット湾の神秘的な海辺の世界や暮らしの風景が素朴な水彩画で迫り、読み手を自然の深淵へ、海辺暮らしの風情へと誘います。子供の頃に感じていた時間の感じ方や自然の不思議を思い出す、大人に読んでほしい絵本です。