宿物語|里と海の「あわい」の土地で(文・聞き手|簑田理香)

第2章 波と生きる|海の暮らしを歌う土地で。(その2)歌は世につれ、世は歌につれ

民謡に囲まれて

宮内さんは、大洗町の海沿いの漁師の家系で、父の代で陸にあがって表具屋を営むようになった家の次男として、昭和23年に生まれました。民謡を始めたのは、夜間の高校に通う頃。父の勧めで、というより、強制的に民謡修行にいかされたと言います。

「表具屋の父は、襖とか障子とか芸者さんの置屋の仕事もけっこうやっていましたし、芸事には明るかったんですね。私が中学卒業する頃、親父が病気をしてしまったので、私が日中は仕事を手伝いながら夜間の高校に行くことになって、そのときですね。職人なんだから、芸事のひとつでもできないとしょうがないって、関根ヨシさんという、当時の名人的な師匠さんのところに行かされました。明治生まれの職人ですから、口答えできないんですよ。ちょっとでも口答えしようものなら、物差しとか飛んできますから。私の祖父が、宮内寅という名前なんですが、歌寅って呼ばれるくらい、歌がうまかったようです。安中の従兄弟にあたり、よく、お茶のみしながら二人で“のどくらべ”していたようです。それを親父は、子どもの頃から聞いて育ってきたようです」

宮内さんは、最初の頃、師匠の関根ヨシさんのもとへ通うのが恥ずかしくてしょうがなかったと言います。昔の家は、防音設備などあるはずもなく、夏は窓を開け放し、近所の人がみんなで聞いているという環境。蚊の鳴くような声では民謡にならない。次第に恥ずかしいという気持ちがなくなって声が出せるようになってから、練習にも気持ちが入るようになったそうです。とはいえ、日中は家業を手伝いながら、民謡にも通い、夜間の高校に通う。時には、父親の代理で地域の会合にも参加する。とても忙しい毎日だったのではないでしょうか。

「高校は夜間で通えるのが水戸商業しかなくて、最初はカブで通いました。昔は、水浜電車という路面電車があって、その電車路を走ると近道なんです。それで毎晩走っていたら、線路の隙間にタイヤがはさまっちゃってパンクして、長い距離を押して帰ったこともありました。それから昔は、銭湯が街に多かったですよね。学校から帰ってくるのが、10時11時だから、もう終い風呂の時間に駆け込んでまして、自然と練習中の民謡を口ずさんだりすると、まわりでもけっこう鼻歌を歌ってる人がいたり。そんな時代でしたね。」

忙しい高校生ではあったけれど、たくさんのことを学ばせてもらったと、宮内さんは言います。地域社会にも助けられた、と。
「昔はね、隣近所、みんな助け合っていました。うちの近所の釣具屋さんの前に共同井戸があったんですよ。子供もみんな、家の手伝いで、ガチャンガチャンやって水を汲んでいたし、夏になると縁台で将棋やって、近所の人も集まってきて、自然と何かしら声をかけあったりできる環境があったんですね」

そして、宮内さんは、民謡を始めたことで大きく世界が開けていったと振り返ります。
関根ヨシさんのもとで数年教わったのち、縁があって大洗町の北隣の港町、那珂湊の民謡の会へ。磯節も、歌われる土地が変われば、リズムも節まわしも間の取り方も変わってくるそうです。最初は慣れなかったという宮内さんですが、那珂湊の踊りに合わせたようなテンポも馴染んできて、ここでは、東北や各地の民謡も教わって、その頃覚えた歌はしっかりと体に染み込んで、いまでも忘れないと言います。宮内さんは、尺八にチャレンジし、5、6年ほど民謡の尺八で研鑽を重ね、29歳になってから、宮内さんは、邦楽の世界へ飛び込むことに。
人間国宝の青木鈴慕先生の直門下で、水戸市在住だった横田鈴琥(よこたれいこ)先生の門をたたき、それから27年という長い時間を横田先生に師事した。宮内さんは「私が下手でもなんでも、いろんな機会を与えてくれたんです。素晴らしい先生のもとで、尺八を学べて、本当に感謝しています」と振りかえります。

「そうこうするうちに、昔の民謡の仲間もどんどん教える側になっていて、イベントやコンテストなどで尺八を演ってくれないか、と声がかかるようになっていったんです。本当だったら、箏曲とか本曲で演りながら民謡も吹く、となると、本来なら破門だと思います。でも横田先生は心が広くて『宮内さんは民謡でやってきたんだから、民謡のほうでがんばりなさい』と言ってくれた。それで、また民謡で吹くようになったんです」

宮内さんは、民謡と邦楽の世界で尺八の研鑽を積み、磯節においては、宮内さんの父や関根安中流の、踊りや伴奏などに左右されない素歌をルーツとする磯節、関根ヨシさんに教わった座敷唄としての洗練され始めた頃の磯節と、それから那珂湊のゆったりとしたテンポの磯節と…、3種類の磯節の世界観を体験してきました。
そんな宮内さんにとって、大洗の磯節は、やはり特別なもののでしょうか?

「民謡や邦楽で全国を回っていて、茨城から来たというと、磯節ですね、と。大洗から来たというと、もう誰でも磯節が歌えるんでしょうという目でみられます。実際のところ、形だけは歌えるかもしれないけど、やっぱりね、三味線にのせてちゃんと大洗の磯節として歌えるという人は少ないですよ。一度、磯節の演奏に誘われて尺八を持って東京に行ったことがあるんです。向こうの歌い方は、もう全然、リズムがずれていて、演奏も難しかったです。教える先生によって、ああいうふうになってしまうんでしょうね。民謡って。だから、やっぱり民謡は、その土地土地へ行って教わらないとダメだと思うんです。秋田の民謡にしても、それから津軽にしても追分にしてもね。そうでないと、違ったものになってしまう」

磯節は、やはり難しいのでしょうか?
「磯節って、間が難しいんですよ、三大民謡のなかでも。江差追分は声が続かないので有名なんですけど。博多節はちょっと繊細ですしね。三大民謡といわれるゆえんは難易度が高いというのもあるでしょうね。それから茨城特有の尻上がりの、お・お・おとか、あ・あ・あとか、そういう独特の磯節の音があるんです。それが磯節はたくさん入るから、1曲歌うとほかの民謡から比べると本当にくたびれると思います。だから、やっぱり磯節の歌い手の中では、浜さんは別格です。本場磯節保存会を立ち上げた浜久美子さん。まだ民謡教室なんかがはやり始める前から、関根ヨシさんについて、昔からの磯節の継承をしている人です。キーが高くて、迫力があって、本来の磯節ですね。ああいうふうに歌える人は、他にいないでしょう。私ですか? 私の歌は親父に、お前のは軽い、軽くてだめだって、ずっと言われていましたよ。浜さんの磯節は、大洗の磯で波がどーんと来て、すーっとかえって行くような、そんな磯節です」

お座敷から歌声

金波楼が里海邸に名前を変えて、建物の姿も変わって1年目の頃(今から6年前)に、里海邸のお座敷で撮影された1枚の写真があります。宮内さんが別格だと評する、浜久美子さんと息子の大澤進一郎さんです。

大正時代に、関根安中と常陸山が出会った金波楼。昭和の世になっても、平成の世になっても、金波楼が里海邸に名前を変えても、お座敷では窓の外から聞こえる荒磯の波の音とともに、磯節の歌と踊りが多くの客人を迎えてきました。浜久美子さんにお話を伺う前に、宿の初代、石井藤助から数えて6代目となる女将、石井文佳さんにお話を伺ってみましょう。女将が、磯節を最初に聞いた記憶は、いつごろのことなのでしょう?

「はっきりとは覚えてはいないのですけれど、宿と道をはさんで向かいの自宅から夕飯を食べに来て…。そんな時にお座敷から聴こえてくるのが、歌声と三味線で。ああ、今日は磯節の人が来てるんだ、と」

「物心ついた時には、祖父は、4代目の石井要と言いますけれど、もう亡くなっていました。代わりにいつも着物を来て旅館の仕事で動き回っていた祖母の姿はよく覚えています。私は四人姉妹で、母が子育てが一段落してからは金波楼の仕事を始めて、代わりに祖母が私たち子どもたちの面倒をみてくれるようになっていました。学校から帰ると家に祖母がいて、晩御飯を作ってくれたり、身の回りの世話をしてくれたり。父と母は、宿のほうに詰めていましたから。それで、どんなに忙しくても、晩御飯は家族で食べようということになって、母が宿で御飯を炊いてお味噌汁を作っていて、祖母が作ったおかずと合わせて、宿の事務室の脇の部屋で、家族で夕飯を食べたりしていましたね。そうやって、夜に宿と行き来している時に、お座敷や宴会場から聴こえてくる磯節は、子ども心に、気持ちのいい流れというか、響きというか、感じていたんでしょうね。“水戸を離れて東に三里〜”なんて体にも記憶にも染み付いていますから」

祖母、和佳さんが金波楼の石井要さんのもとに嫁いできたのが、昭和8年とのことですから、関根安中が座敷で歌う磯節も聞いていらっしゃったことでしょう。女将さんは、あいにくその話は和佳さんから聞かれてはいないとのことですが、代わりに、こんな興味深い話をしてくれました。
「祖母から聞いていた話で驚いたのは、祖母がお嫁に来た時に、おじいちゃん、おばあちゃんが、何人もいたということ。普通は同居する年長者って、お舅さんお姑さんくらいですよね。でも、昭和の初めの金波楼には、そういう人が7人も居たと話していました。祖母の思い出話の中に、“2階に住んでいるおばあちゃん”や“2階でないほうのおばあちゃん”も登場していて、私もちょっと混乱する時もあったくらい。全員が親戚かどうかもわからないけど、『大変だったね、おばあちゃん』と私が言うと、祖母は『みんな、この場所がいいからって、集まって住んでいたみたいよ』とおおらかに笑っていましたよ」